「CMってナニ?」(1)2013/05/10

えー、60年近く、CMに関わって来た。それで食べてきたのは紛れもない事実。
この辺でチョイとふり返って、時々、マジメ半分、CMのコトを考えてみるか。

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「CMってナニ?」(1)

★CMの価値の中心は、ニンゲン同士のコミュニケーション活性化に在る。
いわゆるマーケテイングの道具としての経済的な価値は、その次に来る。
そのことを、よく認識しているクライアントは、チャンとモトを取る。
目先のPR効果、販売促進にせっつくクライアントは結局、損をする。

★CMの作り手、クリエーターにとっても、事情は同じ。自分自身の価値観が先にあって、それに合わせて対象商品をPRする。クライアントの価値観は二の次でヨロシ。個人的(あるいは意志のよく通じ合ったチームの)積極的好奇心と興味ナシでは、社会にシッカリ届く表現は、まず生まれない。

★ハナシは半世紀ほど古くなるが、かつて加藤秀俊氏が、現代の消費者にとっては「広告によって紹介される興味よりも、むしろ広告それ自体に対する興味が先行している」「現代の広告は、モノを売るための手段というだけではないのである。広告は、広告のために、自己目的的な意味と責任をもっているのである。もっとラジカルないい方をすれば、ある広告によってモノが売れようが売れまいが、そんなことは、広告の責任ではないというぐらいの気がまえが、広告マンにあってもよいのではないか」と書いた。(1962年「月刊広告」12月号)

★そして、これに対してサントリー宣伝制作課長、今井茂雄氏が反論を書く。
「広告マンが、広告とはモノを売る手段だと開き直ることは錯覚だ、と加藤氏は言われるけれども、広告から、その本質であるコマーシャリズム、つまりモノを売るという機能をとりのぞいたら、広告は瞬間にこの世から消えてしまうはずである。あとに残ったものは、タワイもないザレゴトか、好事家のスサビものとなった何かにすぎない」(1963年「月刊広告」3月号)

★そしてこの論争を《価値転轍器》の中で取り上げた山本明氏は、「私は何も氏の愛社精神がいけないことだとはいわないが、現代の広告は、もはや一企業的ビジョンでは割り切ることのできぬ性質を持っているのである」と。

★さよ、そーゆーことなのだ。これを、当時流行りのマクルーハンとやらのご託宣でナゾれば「メディアがメッセージだ」と言うことやんか。


★序でに、山本氏の著書《価値転轍器》のテーマを、絞ってご紹介して置こう。

「今日の社会では、商品の流通ルートのほかに、もう一つのルートが必要になる。それは広告のルートだ。そのルートは、モノである商品をシンボル化すること、商品に意味を与えるルートなのである。商品のシンボル化とは何か。それは、商品の商品学的属性を離れて抽出される一つのイメージのことである。それはたとえば《ふしぎの国のアリス》に出てくるネコのようなものだ。アリスが道を歩いていると、木の枝に大きなネコがいて、ニヤニヤ笑っている。ネコはゆっくりゆっくり消えて行く。シッポの先から消えはじめて、胴が消え、脚も消え、最後にニヤニヤ笑いだけが残る。ネコというモノが消えて、後に残ったニヤニヤ笑いこそネコの抽象的シンボルに他ならない。商品が消えて、いわばニヤニヤ笑いだけを残すということが、商品のシンボル化なのである」

★さよ、上手い説明だ。ネコのニヤニヤ笑いだけを残すこと。これがクリエーターのシゴトなのだよ。

★因みに《価値転徹器》は1969年、誠文堂新光社から発行された「ブレーン・ブックス」シリーズの一書で「シンボルとしての広告」とサブタイトルされてる。