「ヤマモト・イソロクの真実」2011/12/09 15:37

えー、12月8日と聞けば、ある感情が湧いてくるワメ世代。一番カッコ良かった軍人が山本五十六。アッチから見れば、フグタイテンの敵やろ。しかし、このコラムは、丁寧に彼の実像を描いた。今、フツーの日本人はここまで知らない、知ろうとしないのや。

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「ヘラ鳥ウォッチング」

「THE RELUCTANT ENEMY VINDICATED BY DEFEAT」(12/08)

「ヤマモト・イソロクの真実」 イアン・W・トール

(桑港:発)

70年ムカシの水曜日、ハワイの晴れた朝、突如、何百機の日本軍用機が真珠湾上空に現れ、アメリカ太平洋艦隊を壊滅させた。アメリカ国民は当然アタマに来て、第二次世界大戦に踏み込んだ。2年前からのイザコザの後、この「屈辱の1日」がこの戦争のターニング・ポイントになった。ここからアメリカの国際世界と世界安定への介入が始まり、それが今日まで続いているのや。

運命のネジレと言うか、この攻撃の計画者である日本海軍提督は、政府に対し、アメリカとは戦うべきではないと、執拗に警告していたのだ。これに従っていれば、20世紀の歴史は大きく違っていた筈や。

ヤマモト提督は、見通していた、この攻撃は日本の勝利など覚束ない長引く消耗戦争となるだろうと。1年かそこらは、と彼は言った、地域的に弱体な連合軍を抑えられるだろう、しかしその後は、経済的に行き詰まり、密集した木と紙の日本都市は壊滅的な空襲に苦しめられるだろうと。

こうした日米格差に対し、ヤマモトは「普通の戦略では勝ち目は無い」と見た。だから、彼の真珠湾作戦は「絶望の中」で生まれたもの、イチかバチかの賭けだった。「戦争の運命を初日にキメるためのベスト選択」だった。

第二次世界大戦中も戦後も、アメリカ人はヤマモトをズルイ悪党と軽蔑した。1941年12月22日のタイム誌は、ヤマモトを、悪意ある、ギョロ目の、陰欝な黄色い顔色のオトコとしてマンガにしている。見出しは「侵略日本人」。「ホワイトハウスに乗り込んで講和条約を結ばせる」と大言壮語したと。

ヤマモトは、そんなコトを言う人物ではなかった。この引用のモトとなった手紙の中でヤマモトが述べていたのは正反対だった。日本がアメリカを征服するなど思いも及ばぬ、と書かれていたのや。

実際には、ヤマモトは、非常にカリスマ的な人物で、彼の世代の中では、視野の広い海軍将官だった。日露戦争最中の1904年に日本海軍兵学校を卒業、21才の少尉として、歴史的に有名なツシマの海戦に参加した。一方的な日本の勝利は世界に衝撃を与え、ニコラスⅡ世から講和条約の申し出を得る。

海軍での経歴中、ヤマモトはアメリカ、ヨーロッパを広く歩き回り、書籍、新聞を読むに充分な英語力を身に付け、会話もなんとかコナした。リンカーンの伝記を何冊も読んで、貧乏に生まれても「ニンゲンの自由」のチャンピオンになった大統領を尊敬していた。

1926年~28年、ヤマモトはワシントン日本大使館の海軍随行員を務めた。この期間中も、安給料にも拘らず、安いホテルを探し、食事を詰めて、単身、アメリカ各地を旅行して回り、アメリカの機械工業の発展力を実感した。「デトロイトの自動車工場を見るにつけ、テキサスの油田を見るにつけ、アメリカとのチカラ較べで日本の国力が大きく立ち遅れていることを知った」と後に述べている。

ヤマモトはサケを飲まなかった。その代わり、オンナとギャンブルに打ち込んだ。将棋、ポーカー、ブリッジに強かった。東京では、新橋芸者との夜を楽しんだ。

制服で旗艦のデッキや、天皇陛下の前に立つ時は、真摯な面持ちが絵になった。しかし他の場所では、センチメンタルな面も見せ、部下の死に涙を流し、好きな芸者への手紙に、心情を打ち明けたりもした。

1930年代の政治的動乱期、ヤマモトは海軍の「条約派」のリーダーだった。人気の無い軍縮条約を支持したのや。彼は超国家主義右翼の好戦言辞を批判、彼等が目的のためには革命的暴力や暗殺を辞さない態度に反対した。平民大臣を抑圧して、満州や中国の一部に軍事侵略を目指す陸軍とそのリーダー連を嫌った。

1936年~39年、海軍次官となったヤマモトは、ナチス・ドイツとの同盟にイノチを張って反対した。右翼熱狂者は、彼を「アメリカと英国の手先」と非難、暗殺を狙った。彼の首に賞金が賭けられ、「天誅を下す」という警告文が送られ、当局はヤマモトが通過する橋を爆破する計画を事前に発見したりした。

1939年8月、ヤマモトは、日本海軍連合艦隊の最高司令官に任命された。(これで彼は政敵の手の届かない位置に登り、暗殺の危険からは脱した)広島湾に繋留された旗艦長門の上から、ヤマモトはナチスとの同盟に警告し続けた。彼は政府に、日本が輸入している石油と鉄鋼の4/5は、連合国側に支配されている地域からのものであることを考えろと忠告したのや。紛争を起こすなんて無鉄砲極まる。「今のところ、アメリカとの戦争に勝つチャンスは無い」と。

しかし、混乱分裂した日本政府は、戦略的モンダイに直面することは拒みつつ、戦争に向かって流されて行った。1940年、ベルリンで、ドイツとイタリアとの3国同盟にサインした。ヤマモトが心配した通り、アメリカ政府は直ちに石油その他重要物資の輸出を規制、終には禁止した。この制裁はトコトン日本を追い詰めた。日本国内には石油産出など無く、ストックもギリギリ1年分だった。

コト此処に至って、ヤマモトは日本に戦争を避けさせる方法を失ったと自覚し、戦争計画に携わるしかなくなった。

1940年、F・D・ルーズベルト大統領は、艦隊に真珠湾移動を命じた。アメリカ艦隊を日本を叩く距離に置く、というシグナルだった。しかしヤマモトは、これを「逆」に捉えた。「これは日本もアメリカ艦隊を叩ける距離に在る、ということだ。日本を威嚇しようとして、アメリカは自分を攻撃され易い位置に置いてしまったんちゃうか」ここで、ハワイのアメリカ海軍本拠地に艦載機の急襲を掛ける計画が生まれたのや。

海軍参謀総長ナガノ提督は、この急襲計画に頑強に反対した。周囲の参謀たちは、日本の艦載機が壊滅的な反撃に曝されることを怖れたのだ。ヤマモトは反論した。アメリカ艦隊は、「日本の心臓に突き付けられた短剣だ」。急襲はアメリカをショックと絶望で後退させると推量出来る。そして最後にヤマモトは、この作戦計画が了承されないのなら、辞任すると威嚇したのや。ナガノ提督は折れた。「充分な自信があるのなら、ヤマモトに任せるのが良かろう」と。

ヤマモトは、この皮肉な運命をどう思ったか:イノチ賭けてアメリカとの戦争を阻止しようとした。その自分が、今は攻撃の立案者だ。「オレはなんてヘンな位置に居るのか。これも運命なのか?」と友人に手紙を書いている。開戦の前の週になっても、ヤマモトは、より賢い方法はアメリカと戦争などしないコトだと言い続けた。「成功のチャンスの殆ど無い戦争を始めるべきではない」彼はナガノ提督に語っている。ヤマモトは3国同盟の破棄と、日本軍の中国からの撤退を進言した。最後には、天皇が戦争反対の「聖断」を下されることを望んだが、天皇は沈黙を続けた。

1941年12月7日、ノッケの30分の戦闘で、アメリカ太平洋艦隊の戦艦8隻が全部ノックアウトされた。太平洋舞台のアメリカ軍用機の2/3に当たる180機が、飛び立つ余裕もなく、破壊された。

日本人は狂気乱舞、ヤマモトは神格化された。東京の海軍将官たちに指令する立場を得て、それは1943年4月、南太平洋で、アメリカ戦闘機が彼の搭乗機を撃ち落とすまで続いた。さよ、真珠湾の成功を除けば、ヤマモトは偉大な提督とは言えないだろう。彼の数々の戦略失敗はヒドイもので、自分の部下からも批判された。実際、戦略面から言えば、真珠湾は、壮大な歴史的計算チガイだったのや。

真珠湾攻撃は、アメリカ国民を容赦の無い全面戦争に向かわせ、それは日本降伏まで続いた。ヤマモトは、ミッドウェイ海戦の日本大敗退、4ケ月に及ぶガダルカナル島奪回にコダワって出血を増やした当の責任者でもある。

しかし多分、ヤマモトの遺産の最重要部分は、海軍での経歴ではなく、戦前日本の騒がしい政治状況の中で、アメリカ相手の戦争は日本の壊滅を招く、と言う真実を語る勇気を備えた数少ない世代リーダーの一人だったことやろ。1945年以降、灰燼に帰した日本で、日本人は、戦争へ滑り落ちることを阻止しようとした彼の努力を想い起こしたにチガイない。あるイミでは、日本の敗戦がヤマモトの真実を描きだしたとも言えるのや。

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ウム。忌憚なくヤマモトの実像を描いたコラムやんけ。ワメとしても、知ってるようで知らなかったヤマモトの足跡を教えられた。まこと70年は一炊の夢やねん。

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_ マスコミに載らない海外記事 - 2012/01/12 23:56

James Corbett grtv.ca 2012年1月2日 (訳注:リンク先は原文通りに設定。したがって、文章の場合は英語原文。) イラン、シリア、南シナ海や世界中の他の紛争地域や引火点で、陣太鼓がまたもや鳴り響き始めている今、虐殺に飽き飽きした世界や、紛争にうんざりした国民が、一体どうしてそうした場所に引き込まれ